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京都鶴屋と八木家
八木家には元々但馬の国(兵庫県養父郡朝倉の庄)に祖を発し、鎌倉時代初期に、遠祖より八木安高によりて起りました。源頼朝の富士の裾野の巻狩りの時、関東一円を震撼させた白い猪を射止めた功績で、頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと云われます。(鎌倉武鑑)
十数代の後、越前朝倉を経て天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え、江戸時代には十家程の郷士(壬生住人士)と共に、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役をも勤めていました。又、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがありました。(八木家、前川家文書)
幕末になり、江戸より浪士を預かり、後の“新選組”発足も京都守護職や所司代との関係であったことが伺われます。
壬生は往古より湧水の出ずるところで、水質にも大変恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地でもありました。その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色にも古くから使用されています。新選組が使っている羽織の段だら模様の水色は、この壬生の色を拝借したものです。
当家は、天正年間より当代まで15代を数え、代々血脈相続しています。